2013/01/16

バンドとの付き合い方/Arctic Monkeys

「好きなアーティストは?」と聴かれたときに回答として思い浮かべるアーティストには、なんだか見栄を張って”自分はこうだ”と、人に見られたいイメージを重ねてしまいがちである。
イメージとは少し言い過ぎか。しかし、見た目に限らず、音楽性、立ち位置、はたまたそれらのアーティストを聴いている層が一般的にどう見られているか(逆にどう見られていないか)…といった点は、どんなアーティストを手にとるかを左右する要素の一部を成していると思う。
気負い過ぎかもしれないが、音楽が所謂ファッションの一部を成していることは周知のところであろうし、あながち的はずれな指摘でもないと思う(反面、音楽は見栄で聴くものではないとも思う。矛盾である)。

数年前まで、冒頭の問いに対する自分の回答は、Arctic Monkeysであった。
簡単に言うと、バンドの持つイメージに憧れたのである(単に"ロックバンド"としてのイメージに対してではない。もしそうであれば、自分は今頃ギターを弾いていただろう)。
彼らは歳が近いということもあるし、また若くして規格外の成功を収めているということもある。Youtubeにアップされたグラストンベリーの動画などを観ると、数多の観衆を前に、平然と演奏をやってのける彼らの姿がある(当時2007年、バンドのメンバーは齢21である…!)。
今思えば、"見た目には普通の青年、やっていることは規格外のロックスター"という単純な構図に惹かれたのだ。フロントマンであるAlex Turnerのポーカーフェイスも最高にクールに見えた。

Arctic Monkeysを聴き始めたのは、ちょうど2ndアルバムの頃である。2nd、そして1stを一緒くたにして、しばらくの間ずっと聴いていた。バンドに興味を持つきっかけとなった曲は、2ndのWhen The Sun Goes Downだったと思う。
凝りすぎていない、でもそれでいて退屈でない。シンプルであり、等身大であり、かつエッジが効いている。手の届きそうな音を鳴らしながら、手の届かないところにいる。捻りが効いていて、クールでいて、踊れる。
”ブリティッシュロック”という概念についてそれ程深く理解しているわけではないが、”これぞ現代のブリティッシュロック”と思って聴いていた。

音楽性やバンドのビジュアルも歳を経るごとに変化しているが、3rd、4thもやはり好きなアルバムである(好きなバンドのアルバムは、大抵捨て曲なしと思える。逆に言えば、捨て曲がないと感じられるバンドこそ、本当に自分が好きなバンドなのだと思っている)。

前置きはこれくらいにするとして、最近、ふとArctic Monkeysの曲を聴いてみた。それも、1st、2nd時代の曲である。
今聴いてみると、驚くほどに若い。バンドも若い、その曲を好んで聴いていた自分もまた、若かった。熱を持って入り込んでいた当時とは違って、今は少し距離を置いて曲を聴くことができる。

バンドの年齢と共に自らも歳をとっているわけだから、その変化には順応できる。1st、2ndとテイストが違うからといって、新しいアルバムが退屈には感じない。
いつまでも若い頃の衝動を持ち続けるバンドというのも多いが、個人的にはそれでは疲れてしまいそうな気もする。

作品を重ねるごとに、その軌跡を追い続けたいと思えるバンドがいることは、幸せなことだと思う。それが同世代のバンドであるなら、なおさらである。
今となっては、以前のようにバンドのイメージに自らを重ねてコミットメントするようなこともない。良い意味で、音楽と対等な関係で、いわばフェアな関係で付き合えるようになったと思う。
久しぶりにArctic Monkeysを聴いて、ふとそんなことを考えた。

2013/01/04

ドライバーのフィルム・ノワール/Drive

Drive
http://drive-movie.jp/
http://en.wikipedia.org/wiki/Drive_(2011_film)



ライアン・ゴズリング演じる主人公ドライバーが、思いを寄せる隣人のために犯罪に加担してしまい、暴力沙汰に巻き込まれる。

舞台はロサンゼルス。
主人公は表向きには、自動車工場で整備工をし、ときどき映画のスタントシーンのために車を運転するドライバー。裏では、強盗犯を現場から逃がす仕事を請け負っている。決められた場所から場所へとクライアントを安全に移動させること、そして、5分だけ待つこと、その二つを条件とし、極めて淡白に、そして確実に、眈々と仕事をこなす。

主人公の持つ運転技術の高さ、そして確実に仕事をこなす徹底ぶりは、冒頭のカーチェイスシーンによって表現されている。運転に関しては映画中に一度も失敗をしておらず、ある意味チートのような域に達しているといえる。

至ってクールに、そして完璧に仕事をこなすこの主人公は、たまたまエレベーターに乗り合わせた隣人である若妻アイリーンに思いを寄せるようになり、アイリーンとその息子、そして当初はその夫を守るために、ある仕事を請け負う。たが、それが原因となり、街を牛耳る悪者達と戦う羽目に陥る。


映画は全体的に静謐な雰囲気であり、暗いシーンの持つ質感も良い(例えるなら、滑らかなダークチョコレートのような質感である)。暗めの演出といい、物語の構図といい、いわゆるフィルム・ノワールと呼ばれるものに近いタイプの映画であるといえる。

主人公は、よくあるアクション映画の主人公のように、銃や体術の扱いに長けているわけではなく、飽くまで一流の運転技術を持つドライバーである。
しかし、一度暴力に手を染めてからというもの、自分の、そして愛するアイリーンとその息子の障害となりうるものを次から次へと徹底してぶちのめしていく。奇襲をかけられれば返り討ちにし、自ら出向いてはまた殺す。

個人的には、単なる熟達したドライバーに過ぎない主人公が、何故こうも順調に、悪をぶちのめしていけるのかといった点に疑問を感じてしまった。また、隣人のアイリーンに思いを馳せていく過程についても、描写としては弱いと感じた(心理描写が浅くあまり感情移入できないのだが、ストーリー上は、主人公が自らの身の危険を省みないほどに思いを寄せているとして観ざるを得ない)。
そういった蛋白な演出に対して際立っているのは、バイオレンスシーンの過激さである。そこいらのアクション映画ではお目にかかれないレベルで、残虐な演出がなされている。
また、”drive”という単語には、”運転する”の他に”駆り立てる”といった意味もあるが、主人公の徹底した仕事っぷりは、”何か”に駆り立てられているようにもみえる。

作中、象徴的なのは、レーシングカーの試走を行った主人公と、そのスポンサーとなるバーニーとが握手を交わすシーン。
主人公は初め、差し出された手を拒み、下記のように台詞が続く。

Driver:My hands are so dirty. 
Bernie:So am I.

レビューを見ていると、”レーシングカーのスポンサーになるという設定の必要性が分からない”といった意見があるが、おそらくこの設定は、上記の台詞のために設けられたのではないか。

この映画のカタルシスはエレベーターの中のキスシーンによってもたらされていると思うのだが、そのシーンの後においても主人公の暴走は止まらない。結局、最後には全ての障害を取り除いて決着がつくのだが、まああまりすっきりとはしない。

主人公の行動が納得感にかけていたり、伏線の用い方が物足りなかったりと、映画を観ていて気になる部分があった。控えめな演出や抑揚のなさは、つまるところ、物語の描写よりも全体的な構造に目を向けろということなのだろう。
シンプルに見えて、案外敷居の高い映画なのかもしれない。