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2013/01/04

ドライバーのフィルム・ノワール/Drive

Drive
http://drive-movie.jp/
http://en.wikipedia.org/wiki/Drive_(2011_film)



ライアン・ゴズリング演じる主人公ドライバーが、思いを寄せる隣人のために犯罪に加担してしまい、暴力沙汰に巻き込まれる。

舞台はロサンゼルス。
主人公は表向きには、自動車工場で整備工をし、ときどき映画のスタントシーンのために車を運転するドライバー。裏では、強盗犯を現場から逃がす仕事を請け負っている。決められた場所から場所へとクライアントを安全に移動させること、そして、5分だけ待つこと、その二つを条件とし、極めて淡白に、そして確実に、眈々と仕事をこなす。

主人公の持つ運転技術の高さ、そして確実に仕事をこなす徹底ぶりは、冒頭のカーチェイスシーンによって表現されている。運転に関しては映画中に一度も失敗をしておらず、ある意味チートのような域に達しているといえる。

至ってクールに、そして完璧に仕事をこなすこの主人公は、たまたまエレベーターに乗り合わせた隣人である若妻アイリーンに思いを寄せるようになり、アイリーンとその息子、そして当初はその夫を守るために、ある仕事を請け負う。たが、それが原因となり、街を牛耳る悪者達と戦う羽目に陥る。


映画は全体的に静謐な雰囲気であり、暗いシーンの持つ質感も良い(例えるなら、滑らかなダークチョコレートのような質感である)。暗めの演出といい、物語の構図といい、いわゆるフィルム・ノワールと呼ばれるものに近いタイプの映画であるといえる。

主人公は、よくあるアクション映画の主人公のように、銃や体術の扱いに長けているわけではなく、飽くまで一流の運転技術を持つドライバーである。
しかし、一度暴力に手を染めてからというもの、自分の、そして愛するアイリーンとその息子の障害となりうるものを次から次へと徹底してぶちのめしていく。奇襲をかけられれば返り討ちにし、自ら出向いてはまた殺す。

個人的には、単なる熟達したドライバーに過ぎない主人公が、何故こうも順調に、悪をぶちのめしていけるのかといった点に疑問を感じてしまった。また、隣人のアイリーンに思いを馳せていく過程についても、描写としては弱いと感じた(心理描写が浅くあまり感情移入できないのだが、ストーリー上は、主人公が自らの身の危険を省みないほどに思いを寄せているとして観ざるを得ない)。
そういった蛋白な演出に対して際立っているのは、バイオレンスシーンの過激さである。そこいらのアクション映画ではお目にかかれないレベルで、残虐な演出がなされている。
また、”drive”という単語には、”運転する”の他に”駆り立てる”といった意味もあるが、主人公の徹底した仕事っぷりは、”何か”に駆り立てられているようにもみえる。

作中、象徴的なのは、レーシングカーの試走を行った主人公と、そのスポンサーとなるバーニーとが握手を交わすシーン。
主人公は初め、差し出された手を拒み、下記のように台詞が続く。

Driver:My hands are so dirty. 
Bernie:So am I.

レビューを見ていると、”レーシングカーのスポンサーになるという設定の必要性が分からない”といった意見があるが、おそらくこの設定は、上記の台詞のために設けられたのではないか。

この映画のカタルシスはエレベーターの中のキスシーンによってもたらされていると思うのだが、そのシーンの後においても主人公の暴走は止まらない。結局、最後には全ての障害を取り除いて決着がつくのだが、まああまりすっきりとはしない。

主人公の行動が納得感にかけていたり、伏線の用い方が物足りなかったりと、映画を観ていて気になる部分があった。控えめな演出や抑揚のなさは、つまるところ、物語の描写よりも全体的な構造に目を向けろということなのだろう。
シンプルに見えて、案外敷居の高い映画なのかもしれない。

2012/12/02

相互理解の難しさ/Lost In Translation

Lost In Translation/Sophia Coppola




ウイスキーのCM撮影のために来日したハリウッド俳優:ボブ・ハリスと、カメラマンである夫の仕事に同行し来日、東京に滞在する新妻:シャーロットが、東京のホテルで出会う。
共に孤独や疎外感を感じていた二人は、自然と距離を縮めていき、束の間の理解者として触れ合い、東京での時間を共有する。

端的にいうならば、相互理解の難しさを、異国の地で周囲に馴染めず孤立する二人の目線によって描いた作品である。

映画の題材は、単に”異国の地で感じる孤立感や虚無感”といった限定的なものではなく、より普遍的な、”ふとした時に誰しもが感じうる孤独感や疎外感、周囲の人間や状況との間に隔たりを感じ、自分を見失いそうになる時の不安”といったものであると感じた。
タイトルも、直訳すれば、言語の違いによって生じる齟齬により、本来の意図が失われるということであろうが、この映画はそれよりもずっと広い意味で、相互理解の過程で失われる様々なものを扱っている。

レンタルショップでは”ラブストーリー”の棚に置かれていたが、この作品を、”慣れない異国の地で孤独な男女が出会うラブストーリー”とみるのは、表面的であると思う(実際、二人が男女の関係になることは、最後までない)。


ソフィア・コッポラ自身が日本に滞在していたことがあるそうで、その際の体験が話の元になっているようだ。
滑稽に見える程にステレオタイプを強調された日本の姿に、首を捻りたくこともある(レビューを読んでいても、その点に不快感を感じたとの意見は多い)が、舞台が日本であるという点や、日本に馴染めない米国人といった題材に、殊更に注目する必要はないだろう。
異国に滞在し、風俗、文化、国民性などの違いからその土地に馴染めないという状況は、題材となる”意思疎通の困難さ”を際立たせるためのシチュエーションとして選ばれているに過ぎない。

普段の生活において、仕事やプライベート等、忙しく動き回っている時には迷いや不安なんて感じている暇はないが、ふと1人で自由に使える時間ができたりすると、何をしてよいのか意外に分からなかったりする。そういった時に、孤独感や不安を感じることはあるが、救いとなるのは、時間を共有できる何気ない誰かの存在であったりする。
そういった”誰か”の大切さを、強く実感させられる映画であった。

他の”日本を舞台とした映画”にはない独特さもさることながら、題材の持つ普遍性の高さに共感を得られているからこそ、この映画は高い評価を獲得することが出来たのだと思う。

先に帰国することになるボブがホテルを離れる際、後ろ髪を引かれるようにしてシャーロットのことを気にかける姿は何ともやり切れない。
リムジンに乗り込み空港へと向かう路の途中、人ごみの中にシャーロットの後ろ姿を見つけ、別れの挨拶をしに行くシーンは、さっぱりとしていながらも余韻があり、とても良い。


二人が別れるシーンで流れる、Jesus And Mary ChainのJust Like Honeyは印象的である。

Phoenixの音楽も使われており(この映画を手に取ったきっかけの一つである)、作中でToo Youngを聴くことができる。